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Hirofumi Matsumura @f:100001032774289
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『僕の頭の中』
をノートで覗き見できます。
ご興味ある方はどうぞ☆

さて
僕の人生は、誰に聞いても次のページをめくるまで何が起こるか分からないと言われ続けてきました。今日でも、それをよく言われます。
自分の人生なんだから、しょうがない。
僕にもわからないのだ。

その断片を書いてみよう。

【プロフィール】----------------------------
1970年4月
愛知県生まれ。
西区の名古屋城が見える縁側を持つ旧家で産まれたらしい。

岡山県出身(3歳から18歳まで)
幼稚園、保育園、小学校、と引越しを多く経験するため、“幼馴染”“同級生”“出身地”のフレーズが苦手だった。

■小学校時代
2年で転校
転校先では、4年生になるまでほぼ毎日だれかと喧嘩をしていた。
一番多かった時は、21人を1人で倒してしまった。
高学年では、暴力団を親に持つ子と親友になる。
周りが彼を怖がるのがどうしても分からなかった。
悪いことは悪い!だから、平気で親友の頭を殴った。
彼は北斗の拳のケンシロウを目指し、僕はラオウを愛した。
いつももっと強くなりたい!もっと強くなりたいとお互い話していた。
彼とは、高校3年で劇的な再会を果たす。

4年生:担任に卒業まで喧嘩をしなかったら欲しいものをなんでもやると約束され、もともと好きでもなかった喧嘩から、離れるようになる。

5年生:どうしても喧嘩を習いたいと言う子を殴る。血だらけになって、僕を嫌いになって二度と喧嘩なんかしたくないと言うだろうと思ったが、彼は僕の足にしがみついて泣きながら強くなりたいと言った。この時、二度と人を殴らないと言う決心をする。

6年:公の喧嘩を4年からすることなく、教師から約束の欲しかったもの「ギネス・ブック」を貰って卒業する。
どうして「ギネスブック」なんかが欲しかったか?
世界1になるにはどうしたらいいかを学びたかったから。
当時は喧嘩でしか世界1になれないと本気で思っていた。
違う世界1を見てみたかったのだ。


■中学時代
1年:転校したてで、親友を3人作ると決心。
  作った親友を剣道部に勧誘、同じ部員として3年間遊ぶ。
  その内、1人目は、警察官の息子。(マイミク)2人目は、進研ゼミで日本一で、英検で問題の間違いを指摘し総理大臣から賞状をもらった天才児。3人目は、後にどえらい発明で特許を取るが、当時は中学生でありながら孔荘孟老思想に詳しく、漢詩を読解でき、且つ古文をふつうに読むことのできる異端児。

2年:校内水泳大会出場が突然決まる。背泳で50M57:00で優勝。水泳部から呼ばれるも、当時のオリンピックの記録からは遠かったため剣道を優先し、断る。
祖父(県警の警察学校教諭)の戦友だったと言う剣道の師匠から、初めて真剣を握らせてもらう。そして、真剣で師匠と斬り合う。人生で初めて死ぬかもしれない戦慄を憶える。このことが原因で、先端恐怖症になり、技工の授業の半田付けで、卒倒し意識を失う。
真剣での斬り合いが頭から抜けず、竹刀が体に触れることも許せなくなり、もう特訓!
剣道バカが始まる。(のちに地元の道場破りを重ね、不遷流柔術の道場に通うことになる。)
バス通学だったバスの運転手が運転中に平気で吸っているタバコを注意、バス会社の社長の息子と大げんかの末、バスの運転中喫煙はなくなった。
進路指導の教諭に、進路相談で大笑いされる。志望校への合格点が英語だけまったくたらないと気付き、塾へ、この頃毎日3時まで勉強し、6時には朝練のため学校へ向かっていた。

3年:硝子を踏み、右足の裏の腱を切ってしまい体育祭に欠場。片足での通学により、とんでもないふくらはぎの筋肉を得る。この頃あだ名がガンダムに……。生徒会に立候補するも、落選し、副会長になる。不登校の生徒を毎日登校前、家に呼びに行ったが、名誉欲のためと非難され、その生徒と大喧嘩。修学旅行の班分けで彼を選んでいると生徒会長と同じ班となる。誰ひとり信じていなかった彼の参加を信じ、ついに修学旅行数日前、登校してきた彼と中学最後の思い出を作る。(のちに彼は当時の出来事を詩にし、それが映画化される。)

志望校への合格点ギリギリで悩んでいた時、親友が言ってくれたことば。
「ぼくと同じ高校へきて勉強で窮屈な思いするより、1ランク下げてその学校で生徒会長にでもなって学校のランクごと変えたらいいじゃん!」
この言葉は、のちにその通りになる。

■高校時代
1年:風紀委員
  剣道部に所属。
2年:風紀委員長
  剣道部・美術部・演劇同好会
  東雲祭(体育祭)で団長を務め、優勝に導く。
3年:生徒会長
  剣道部・美術部・演劇同好会・文学同好会・体操部
  生徒会で、バイト禁止を撤廃し、バイトOKにするなど、いくつか校則を変え、伝説の生徒会長と呼ばれる。

医学部に行って骨髄の培養、もしくは幹細胞の人造化を人生の目標としていたが、諸々の事情で断念、当時親友が見ていた夢(映画監督)に便乗し東京へ上京する。

18歳で東京に上京 日経新聞奨学生制度を活用しながら、東京映像芸術学院に通う。
20の時、親友に裏切られ、人間不信になる。言葉が喋れなくなると言う不思議な現象を経験し、このとき自殺を図る。
別の友人に助けられ、社会の見聞を広げろと渡米を進められる。
20歳の時単身渡米、見聞を広める。
カリフォルニア州サクラメントで、4年間日本食レストランを手伝いながら語学習得に励む。

24歳で帰国後は舞台やTVで芝居の傍ら、父の影響で料理を学び、フードコーディネーターとしても働く。
帰国後しばらくは、港区芝の増上寺厨房で和食、精進料理、会席膳などを学ぶ。

25歳の時、日本語がおかしいと友人に指摘を受け、日本語と日本文化を再勉強するため、落語家の春風亭小朝の下で弟子見習いを経験。師匠に「春風亭アボガド」と命名いただく。

26歳の時、友人の紹介で某PCメーカーのテクニカル・イラストレーターとしてデビュー。
この頃、NYから日本のCNNキャスターとして来日していたブロードキャストと親交を深め、彼の演劇ワークショップで通訳を担当。マイズナーやメソッドなどを学び、ともに舞台にも立つ。

28歳で初めて企画・脚本・キャラクターデザインをすべて手掛けたPC用ゲームが紀伊国屋などで発売に。(勝手に興奮する。)

30歳の時、はじめてバク中ができるようになる。この時、久しぶりに行った空手のフルコンタクトの道場でやったスパーリングがもとで網膜剥離になる。
デザイナーとしての人生を断念、事務職に移る。(左目は今も治療時に眼球をくるんだゴムがくっついている。)
この年、はじめて童貞をささげる。(恥ずかしさなどなかった。むしろ、なぜこんなものを護っていたのかと考える。)


以来、PC機器・電子ピアノ・プリンター・コンパクトTV・ケータイなどテクニカルイラストレーションをはじめ、ゲームのキャラクターデザイン、人物カット、メディカルイラストレーションなど様々なイラストからマンガまでを作成する傍ら、

マニュアル本の作成、グラフィックデザイン、エディトリアルデザイン、Webのアート・ディレクション、各種プロデュース(舞台・パーティ・ライブハウスなど)、ゲームのシナリオ、舞台のシナリオ、フードコーディネーターなども手がける。

現在40代突入にして、小説家を目指し日々執筆中
ん?
諦めてないか?って
まだまだ!
諦めてなんていませんよっ☆

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2008年PSP版 ゲームにて小説を読む企画に処女作「すみれ」と「MANA」が選ばれる。

【タイトル】みんなで読書ケータイ小説ですぅ~
【価格】3,990円(税込)

『すみれ』(私の処女作)1989年草稿1998年執筆
www.geocities.jp/senceoflove/sumire01...
15歳の時、人気歌手の飛び降り自殺がTVなどで流れ、報道から2週間で約25名の未成年による後追い自殺が新聞やTVで報道される…まったく自殺する人の気持ちが分からなかった高校時代。
20歳の時、信頼していた先輩と親友に裏切られ人間不信に陥り、自殺を図るが、一命を取り留め約1ヶ月ほど誰とも会話できない精神状態を経験した。
この2つの自身の経験を元に、帰国後、いのちとはいったい何なのかを考えぬいて書いたファンタジー抒情詩

『「愛」~MANA~』
www.geocities.jp/lahameem/
ある教師の悲しくも奇跡の回顧録
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